騙し討ち投法の左サイド
シーズン成績 1勝2敗 防御率4.27
出どころが見えにくいサイドスローから打者を封じる中継ぎ左腕。駒沢大学、新日本製鐵を経て79年のドラフト3位で中日へ入団。1年目からいきなり47試合に登板し3勝、2年目の1980年にはブルペンで唯一の左腕としてフル稼働。腰痛による離脱はあったもののリーグ最多の56試合に登板した。81年も47試合、82年も31試合に登板するが82年のシーズン途中に血行障害を発症し離脱。同年の日本シリーズにも登板したが、翌年以降は一軍登板がなく83年限りで現役を退いた。引退後はドラゴンズでスカウト、コーチ等を務めた。
【査定について】
球持ち リリース〇...週刊ベースボール1980年6月2日号に水谷のフォームが写真付きで解説されている。これによると、スローテンポな始動からフォームの時間の使い方を工夫し遅速の技で打者を翻弄していたようだ。他資料にも一度上げた足をいったん止める「時間差投法」や、サッと足を降ろす「クイック投法」を行っていた記述がある。変則気味なフォームがより活かされるように球持ち+リリースを付与。
変化球...サイドスローらしくナチュラルにシュートするストレートに加え、スライダー、フォーク、カーブ、シンカー、チェンジアップなど多彩な球種を投じる。得意球と書かれていたフォーク、ワンポイントとしてよく起用されており左打者をよく封じているので有効なスライダー、反対方向の変化としてシンカー(スクリュー)を採用。
四球...上記の週刊ベースボールに「平均して低いところを攻める」との記述がありコントロールがあったことが伺えるが、通算で見ても与四球が多い。コーナーを狙いに行って四球を増やしたか。
【ひとこと】
この時代の投手には珍しく通算181登板中先発は3回だけの完全なリリーバー。前回は汎用フォームで作成しましたが、1球だけ投げている動画を見つけたので映像に近い固有フォームで作成しました。
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