伝説の豪打者
シーズン成績 打率.282 31本 87打点
強肩豪打のスラッガー。高校時代は柔道への道を志していたが、早稲田大学時代にベストナインに4度選出される選手へと成長し、鳴り物入りで中日に入団。ルーキーながら4番に定着し、新人王は逃したものの23本塁打、73打点の成績でベストナインにも輝く。迎えた2年目の1959年には更なる成長を見せ、桑田武と並ぶ31本塁打、リーグトップの87打点で2冠王に輝いた。翌年も主軸として活躍したが、4年目に濃人渉が監督に就任すると、濃人の贔屓起用も相まって軋轢が生まれ出場機会が減少。1961年のオフにはトレードで大洋へ移籍。その後東京オリオンズにも移籍したが、1968年限りでプロ生活を終えることとなった。
【査定について】
過去に1度作成したがデータや色々な情報が集まったため再度作成
チャンスE 得点圏打率.228 数値的にFでも良かったが打点王補正で甘めに査定(実際前後年の得点圏打率は低くない)。
弾道3+パワーヒッター 新人から3年連続で本塁打数トップ3に入った森だが、当時を見たファンの証言によると森の打球は叩きつけるスイング*1から突き刺さるような当たりが多かったという(王貞治のような綺麗なアーチを描くタイプではなかったらしい)。前回は弾道4+ラインドライブで作成したが、理想のアーチを追求し続けた森に敬意を評しどうしてもパワーヒッターを付けたかったので今回は弾道3にして作成。
マルチ弾 5度の1試合2本塁打
走力 前年にランニングホームランを記録している(この年代なので参考程度だが)他、当時の週刊ベースボールに「俊足揃いのチームでもヒケを取らない自信がみられる」と走塁を評価されている。
調子極端 打撃にムラがあったという記述がいくつかあり、前年も前半戦は不調で体調不良による離脱後の後半戦から打棒を発揮。翌年のインタビューでも自身の打撃を「むらがある」「その日によって打つとこが変わっちゃう」と評している。
ダメ押し 責任感が非常に強くプレッシャーに弱いタイプだったようで、ルーキーイヤー前半戦の不調も4番を任された重圧からだったと言われている。しかし、この年は得点圏打率は低いが打点王を獲得。このことから、プレッシャーのかからないチャンスの場面ではしっかり打点を挙げていたのでは?と予想しダメ押しを追加*2。
人気者 オールスター選出、大学から鳴り物入りで入団した他、翌年の週刊ベースボール12球団選手名鑑では長嶋や杉浦らを差し置いて表紙を飾っている。週べでも特集を組まれることが多く、当時はスター級の知名度があったのだろう
【ひとこと】
当時の週べから多くの情報を拾えた為、50年代にしてはかなりクオリティの高い査定が出来たと自己満足しています!この年の中日打線はかなり面白いメンバーなので、いつかスタメンだけでも全員再現してみたいですね。
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